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街のあゆみ

現在の駅前大通りは、古くは、古川通りと古土呂橋の間で一面葦に覆われた全く淋しいところであったと言われております。江戸時代は宿場町として繁栄したそうですが、それも旧国道、六郷寄り砂子通りを中心としており、駅前大通り付近は小川が入り組んでいたと聞いております。

現在の銀柳街を含め古川通りとしてその辺りが開けたのは大正年代に入ってからのことと言われています。京急が川崎まで開通したのが明治41年のことで、駅前の町内会などできたのも大正の始めころで、当時は町名がなく停車場横丁と呼ばれていたそうです。

昭和10年頃になると川が埋められあんきょに依って整備され、徐々に発展してきましたが、第二次大戦によりまた元の荒廃した状態に戻ってしまったのです。戦災による川崎の被害は甚大で、駅前周辺は壊滅の状態でありました。戦後この荒廃した焼け野原を復興しようと当時の商店有志がここに集い現在の駅前の繁栄があるのです。

ここ数年、川崎駅前周辺は来川崎者がびっくりするほど、大変貌し変化をもたらしました。アゼリア、ルフロン、西武、丸井の誕生、目まぐるしいまでの変貌です。全く、いにしえの感があります。

駅前大通りの過去をさかのぼると、当初、砂子共進会商業共同組合として発足、以来昭和25年4月に川崎駅前大通商業協同組合に組合名を変更、当時、故森川新右門氏が理事長として活躍していました。昭和31年に故辻野啓之助氏が理事長に就任し、昭和40年には、アーケード建設に情熱を注ぎ現在の駅前大通りの発展に寄与し、多大な功績を残しました。

昭和40年代の高度成長期を経て、昭和51年にはカラー歩道の建設、53年にはネオンアーチ看板の設置など駅前大通りも他商店街に恥じない商店街として努力してまいりました。従来のアーケードづくりは、雨対策、西日対策による販売効果など実用主体でしたが、現代のアーケードづくりは町並みづくり、そしてショッピングゾーンとして、プラザづくりに重点がおかれてきております。

駅前大通りも、この度、装いも新たになったこれを機会に市民に親しみやすい37番街、駅前大通りとして、文字どおりモールにふさわしい雰囲気でお買物をしながら散歩を楽しんでもらうことを願っております。